あの頃 · 写真100枚 · 1940–2011
束草、あの頃
水辺で魚をさばき、渡し船で行き来し、町の店先で写真を残した日々。港から路地へ、学校から浜へと続く束草の暮らしを写真100枚でたどります。
写真100枚を見る束草港・青湖洞・東明港・大浦港
水辺から始まる一日
船が戻り、魚が下ろされ、取引や加工が続きます。魚市場のかごやイカ干し台、水路を渡る船から一日をたどります。
船が帰る束草港
1950年代の束草港に漁船が入ってきます。岸に寄せた船の上と水際に人が集まり、手前には自転車も見えます。船着き場と人の通り道が接していた港の姿です。
魚市場に積まれた干しイカ
1950年代の束草の魚市場で干しイカを売買する場面です。束ねたイカの山の間に人が立ち、すぐ後ろの水際には船が並びます。海で取れた水産物が陸上の取引へと渡る場所です。
冬のスケトウダラをさばく手
1950年代の冬、スケトウダラを処理する作業場です。床に並べた魚の前に人々が座り、手を動かしています。厚着の姿と作業場を埋める魚から、冬の水産物加工の現場が伝わります。
船のそばで始まる魚の取引
1950年代の束草水協の魚市場付近です。地面に魚が広く並べられ、かごや箱の間に人々が集まっています。後ろの漁船も写り、荷揚げと売買がつながる場所を示しています。
かごのそばでイカの作業
1950年代の岸壁で人々がイカを扱っています。しゃがんだ人のそばに丸いかごがあり、後ろの船では荷を運ぶ姿が見えます。船上の仕事と陸での処理が、すぐ近くで続いています。
人をいっぱいに乗せた渡し船
1960年代のケッペが水路を渡ります。低く平らな船の上に乗客が並び、対岸には背の低い家が続いています。大きな船室を持たずに水上を往復した、町の交通手段です。
車輪の付いたイカ干し台
1980年代の青湖洞の水辺に、移動式のイカ干し台が並びます。何段もの枠にイカが掛けられ、下には車輪が付いています。水辺の道が水産物を干す作業場にもなっていたことが分かります。
青草湖の渡し船引き大会
2006年10月26日、青草湖で開かれた全国ケッペ引き大会です。水上の二隻に参加者が乗り、湖岸には見物する人々が集まっています。エキスポタワーを背景に、渡し船が競技の舞台になった場面です。
大浦港の集落、過去と現在
1950年代と1960~1970年代の大浦港です。撮影位置は異なり、港を囲む家と水辺を比較します。
ここでの現在は二枚のうち後の時点を指し、今日の姿ではありません。
岩場から見た大浦港
1950年代の大浦港を背景に、二人が岩場に立っています。後ろの水辺には低い建物が集まり、港内には船が浮かびます。人の目線に近い位置から、港と集落の近さを見ることができます。
雪に覆われた大浦港の集落
1960~1970年代の大浦港の冬景色です。港を囲む斜面に家が密集し、屋根や丘には雪が残っています。水辺に沿う道と防波堤を一緒に見ることができます。
網と漁船が集まる大浦港
2008年10月28日の大浦港の内側です。停泊する漁船の前に網や漁具が置かれ、後ろには店が並んでいます。客を迎える店と漁業の作業場が近接しています。
大浦港の荷揚げ場の露店
2008年9月25日の大浦港の荷揚げ場付近です。原資料が露店街として紹介する店が水辺に続き、後ろには大きな看板の建物が並びます。港の荷揚げ空間と商売の場所が一緒に写っています。
大浦港の開発、過去と現在
2008年と2011年の大浦港です。手前の建物と港内を基準に、その外側へ広がる工事用地を見てください。
ここでの現在は二枚のうち後の時点を指し、今日の姿ではありません。
開発工事前の大浦港
2008年7月11日に大浦港の内側を見下ろした写真です。湾曲した水際に船と建物が並び、海へ防波堤が延びています。続く2011年の写真と比べると、港の外側の空間の変化が分かります。
工事で変わる大浦港の輪郭
2011年4月28日、大浦洞の丘から見た大浦港の開発工事です。従来の港の外側に広い工事用地と新しい構造物が広がっています。2008年の写真と並べると、水面と陸地の境界が変わった部分が見えてきます。
東明港入口、過去と現在
1980年代と2000年代の東明港入口です。向きの異なる二枚から、水辺の作業場と入口の商店街を見られます。
ここでの現在は二枚のうち後の時点を指し、今日の姿ではありません。
東明港入口の道と船
1980年代の東明港入口です。手前の横断歩道と水辺に集まる船が一つの画面に収まっています。人や車の通る道のすぐ先に、漁港の作業場が続きます。
看板とアーチが迎える東明港
2000年代の東明港入口の通りです。港へ入る道にアーチが掛かり、角の建物には飲食店の看板が重なっています。前の写真とは撮影方向が異なりますが、港の入口に集まった商業施設を見ることができます。
章沙港へ続く海岸の道
1990年代後半の章沙港と刺身店街の一帯です。水辺に沿って道路と建物が続き、海岸側には防波堤と消波ブロックが見えます。道沿いの車と港周辺の店舗から、海辺に集まる移動と商いの空間を読み取れます。
防波堤の内と外に広がる束草港
2000年代の束草港を海側から見下ろした写真です。長い防波堤の内側に埠頭と船があり、水辺の向こうに市街地が続きます。港と街、奥の山並みが一つの画面に入り、水辺の生活空間がどこに集まっているかを見渡せます。
中央洞・錦湖洞・朝陽洞
看板の下、道の上の束草
船具店と時計店、市場の通路とバスターミナル。店名や行き交う乗り物から、中心街の変化をたどります。
船具店と洋服店の前で
1950年代の通りに、東洋船具店、端川洋服店、文川時計店の看板が見えます。雨具のように体を覆う服を着た人々が店の前を通ります。船用品と服、時計を扱う店が一列に集まっていました。
永郎第一市場の狭い通路
1953年の永郎第一市場です。狭い道の両側に生活用品やかごが並び、その間を人々が行き来します。店内と道端の商品が同時に見え、市場の密な空間構成が伝わります。
十字薬局の前の二人の子ども
1960年、十字薬局の前で二人の子どもが腕を上げています。後ろには薬局と新聞販売所の看板があり、道沿いには低い境界が見えます。子どもの記念写真に、中心街の店と通りの姿も残りました。
時計店の角から見る中央洞
1960~1970年代の中央洞の繁華街です。角の文川時計店から店が続き、人々が広い道を歩いています。立体的な角の建物と道沿いの小さな店が並ぶ商店街です。
文渓書店のあった通り
1963~1965年の束草の商店街です。文渓書店などの縦看板の下を人々が通り、道路の端はでこぼこしています。原資料には、劇作家の李盤と詩人の李聖善がこの書店で働いたと記されています。
大韓航空束草支社の前の車
1968年5月1日、韓興製材所と大韓航空束草支社が入っていた建物です。壁に業種や店名が大きく書かれ、前には車が並びます。異なる事業所が同じ建物に入る街の姿です。
中央街路の開設、過去と現在
原資料が開設前と拡張現場として区分した写真です。撮影年代の範囲が重なるため、特定の年を挟む変化とは断定していません。
ここでの現在は二枚のうち後の時点を指し、今日の姿ではありません。
中央街路が開かれる前の店
1960~1970年代、中央街路開設前の姿と記録された写真です。明電社などの看板の奥に、低い屋根が密集しています。続く拡張工事の写真とともに、道ができる過程を見ることができます。
建物の間で広がる中央街路
1970年代の中央街路拡張工事です。建物の間に崩された壁や石の山が残り、人々が工事区間を通ります。既存の店や住宅の間で道路の空間を広げていく様子が見えます。
中央街路、過去と現在
1990年代と2000年代の中央街路です。高い場所と道路近くという視点の違いを踏まえ、車や店を比較します。
ここでの現在は二枚のうち後の時点を指し、今日の姿ではありません。
車と店が続く中央街路
1990年代の中央街路を見下ろした写真です。店の間の道に乗用車やバスが入り、両側に看板と街路樹が続いています。遠くまで延びる道路に沿って、商店の密度を見ることができます。
道路の高さから見る中央街路
2000年代の中央街路を道路に近い高さから見ています。前を走る車や路肩の車の間に、大きな商店の看板が続きます。1990年代の写真とは目線の高さが違いますが、車と店が道を満たす様子を比べられます。
錦湖洞の広い道
1970年代の錦湖洞の市街地です。低い店と複数階の建物が道の両側に混在し、歩行者と車が同じ景色に収まっています。道幅と建物の高さから、当時の中心街の規模が分かります。
市外バスターミナル、過去と現在
1970年代の乗り場と1990年代のターミナル周辺です。地上の写真と広い眺めから、ターミナルと町の関係を見ます。
ここでの現在は二枚のうち後の時点を指し、今日の姿ではありません。
バスが並ぶ市外バスターミナル
1970年代の束草市外バスターミナルです。広い敷地にバスが並び、人々が建物の前を行き来しています。乗り場と周囲の通りが近い、当時のターミナルの構造が見えます。
町の中のバスターミナル
1990年代の束草市外バスターミナル周辺を高い場所から見ています。バスの集まる空間を低い住宅や商店が囲みます。1970年代の写真より視野が広く、ターミナルと周辺の町の関係が分かります。
郵便局周辺の行き交う道
1970年代の束草郵便局周辺です。道端を歩く人や荷物を載せた自転車が見え、奥にはバスが並んでいます。徒歩と自転車、バスが一つの通りで出会う日常の交通風景です。
馬車が通る朝陽洞の国道
1960~1970年代の朝陽洞の国道7号線です。道を馬車が進み、両側には低い家や開けた土地が見えます。電柱が遠くの山に向かって道沿いに続いています。
洞事務所の前を通るバス
1970年代、朝陽洞の洞事務所前の国道7号線です。瓦屋根の建物の横に舗装道路が延び、バスが近づいてきます。建物前のわずかな余白と車道が接する道でした。
高速バスターミナル周辺の交差点
1990年代の朝陽洞高速バスターミナル周辺です。横断歩道と車線のある広い道を乗用車が行き交い、両側の建物に店の看板が付いています。道路に沿って広がる商業空間が見えます。
繁栄路に沿う車の列
1990年代、ソラクタワーから東進リゾートまでの繁栄路です。車線のはっきりした道沿いに車が並び、奥には高い建物が見えます。街路樹と電線、商店が道に沿って続いています。
教育庁裏の収復路
1990年代の束草教育庁裏手の収復路です。緩やかな道を車が行き交い、片側には高い建物が並びます。歩道と車道の区分や、沿道の建物の高さが分かる街の記録です。
公設運動場五差路の横断歩道
2000年代の公設運動場五差路です。広い横断歩道の前に車が続き、分岐点の周囲の建物にはさまざまな看板があります。複数の道が交わる場所に店と交通が集まっています。
東明港へ続く商店街
2000年代の東明港の道路です。両側に低い商店が続き、道路の端に何台もの車が止まっています。縦に長い飲食店の看板が、港周辺の通りの性格を示します。
収復塔のそばの屋台
1990年代の収復塔付近の屋台です。小さく区切られた店が一列に並び、前には乗用車と大きな植木鉢があります。店の集まる空間と、その前の空き地が一緒に残されています。
青湖洞・東明洞・永郎洞・青鶴洞・ウェオンチ
低い屋根の間の暮らし
電話交換台と消防車、灯台下の家、小さなスーパーと雪道。身近な生活空間から町の営みを見つめます。
クェクサンから広がる束草
1950年代、クェクサンから見た束草市街です。手前には低い屋根が密集し、遠くに山並みが続きます。個々の建物だけでなく、町全体の大きさや屋根の間の道を見る写真です。
電話をつなぐ交換台
1950年代の束草郵便局の電話交換手たちです。それぞれが交換台に向かって椅子に座り、機器につながるコードが見えます。人の手で通話をつないでいた仕事場です。
義勇消防隊の車庫の消防車
1950年代の束草義勇消防隊の建物前です。大きな文字の掲げられた車庫の入口に消防車が見えます。車体の装備や高い車輪から、当時の消防車の形を観察できます。
東明洞の家の前の浜
1963~1965年の東明洞の海辺の集落です。石垣の後ろに低い家が続き、手前の砂浜には人が見えます。家の前の生活空間と波の届く浜が近い風景です。
灯台下の集落、過去と現在
1960~1970年代と1980年代の束草灯台下の集落です。岩の丘を基準に屋根や海岸の空間を見比べます。
ここでの現在は二枚のうち後の時点を指し、今日の姿ではありません。
灯台下のセプチョク村の屋根
1960~1970年代、束草灯台近くの永郎洞セプチョク村です。岩の斜面の下に小さな家が集まり、そのすぐそばに海が広がります。1980年代の写真とともに、灯台下の集落と海辺を比較できます。
1980年代の灯台下の集落
1980年代、束草灯台の下を広く写した写真です。灯台の立つ岩山の下に家と道があり、手前には空き地や乾燥用の設備が見えます。前の写真とは角度が違いますが、同じ灯台下の生活空間を見られます。
楽泉浴場周辺の青鶴洞
1960~1970年代の青鶴洞、楽泉浴場付近です。道沿いに低い店が続き、建物の前には自転車が置かれています。浴場や店が集まった町の生活道路です。
青鶴洞の国道沿いの車線
1980年代の青鶴洞の国道沿いです。車線と横断歩道のある道の両側に店が続き、電柱が並んでいます。遠くまで延びる道路と低い建物の関係が見えます。
校洞の事務所と保健所周辺
1980年代の校洞の洞事務所と保健所付近です。広い舗装道路の横に塀と低い建物が続きます。並んだ境界の柱や街路樹が、車道と歩行空間を分けています。
束草中学校周辺の国道7号線
1980年代の束草中学校周辺の国道沿いです。片側の長い塀と反対側の低い建物が道路に沿って続きます。車線や歩道、街路樹の整った学校周辺の道です。
校洞住公第1団地、過去と現在
1980年代に川の向こうから見た住公第1団地と、2000年代初めに近くから見た同じ団地です。撮影位置と距離は異なります。団地の外の道や水路と、建物前の木やバルコニーを見比べてください。
ここでの現在は二枚のうち後の時点を指し、今日の姿ではありません。
川沿いの道と住公第1団地
1980年代、学生体育館横の川と住公第1団地付近です。細い水路沿いに人の通る道が続き、奥にはアパートが見えます。開けた土地と集合住宅が一つの画面に収まっています。
間近に見る校洞住公第1団地
2000年代初めの校洞住公第1団地を近くから撮影した写真です。明るい外壁に窓とバルコニーが並び、建物の前には木と小さな花壇があります。先の1980年代の写真に遠く写る団地と合わせると、周辺の風景と住居の細部を異なる距離から見られます。
カーブの向こうの校洞のアパート
1991年の校洞・現代アパート団地周辺です。黄色い中央線のある広い道路がカーブし、その向こうに複数のアパートが立っています。街路樹やまだ建物のない土地も写り、住宅地と周辺道路の様子を見比べられます。
繁栄路開設前の学校裏の道
1980年代、束草小学校の裏門側です。原資料は繁栄路開設前と説明し、広い土の道と低い家々が見えます。道の上の人や車から、舗装前の町の規模が分かります。
移転したウェオンチ村
1980年代の移転したウェオンチ村です。塀で区切られた家が並び、奥に広い土地と低い丘が続きます。同じような高さの屋根と家の間の道から、村の配置が分かります。
永郎洞の国道沿いの横断歩道
1980年代の永郎洞の国道沿いを写したカラー写真です。手前の横断歩道の先に道が延び、低い店の前に人が見えます。車線や建物の壁の色も残る町の風景です。
青湖洞の低い家の間で
1980年代の青湖洞の主要道路です。平屋の家が狭い道を挟んで向かい合い、子どもたちの上を電線が走っています。家の出入口と町の道が近くにつながる生活空間です。
渡し船乗り場へ下りる道
1990年代の中央洞のケッペ乗り場への道です。商店の間を下る狭い道に車が集まり、建物には看板が並びます。水路へ続く小さな路地でも、商売と移動が重なっていました。
アバイ村の湖南商会の前
1990年代、新水路ができる前の青湖洞アバイ村です。湖南商会の看板の下に陳列窓があり、子どもが店先の低い段に座っています。小さな店の入口と道端の日常が一枚に収まっています。
ホンウォンスーパーのあった路地
1990年代の青湖洞のホンウォンスーパーです。瓦屋根の下の商品看板とガラス戸が道に向いています。原資料は新水路の開設で失われた店と記録し、写真がその場所の姿を伝えています。
青湖洞の渡し船乗り場前
1990年代、新水路開設前の青湖洞のケッペ乗り場です。小さな建物の間に水辺へ下りる通路が開き、対岸の市街地が近くに見えます。陸の細い道が水上交通につながる場所です。
アバイ村の低い食堂の建物
1990年代、新水路開設前の青湖洞アバイ村です。低い屋根の下に食堂の看板や出入口が続き、道端にオートバイが止まっています。家や店の前の小さな道から見た町の姿です。
店先へ続くアバイ村の日常
1997年のアバイ村の商店街です。両側の低い店に日よけと看板が並び、店先には衣類や日用品が出ています。歩く人と商品の陳列場所が近く、買い物と移動が同じ路地で行われる様子が見えます。
赤い屋根の向こうのアバイ村の海
1997年のアバイ村の住宅地を見下ろした写真です。赤い瓦屋根の低い家々が集まり、手前の道路には白い車が見えます。屋根の間の電柱と電線の向こうに海が広がり、住宅地と海岸が隣り合う街の姿を伝えています。
青草湖の埋立現場のそばの家
1990年代、アバイ村側の青草湖の埋立工事です。家々のすぐ横に広い土の地面と工事機械が見えます。既存の町の生活空間と新しく作られる土地が接する場面です。
雪の中のバスと人々
1950年代の大雪の後の様子です。深い雪の間を人々が一列に歩き、その先にはバスが止まっています。踏み固めた通路と雪に囲まれた車が、移動を妨げる積雪を示しています。
雪と車輪の跡が残る道
1960~1970年代、大雪の降った束草市内です。道に深い車輪の跡が残り、自転車や車が雪の間を通っています。店先や車道の雪が、一つの通りの異なる表面を浮かび上がらせます。
大浦洞の国道沿いの2008年の冬
2008年12月22日、大浦洞の国道7号線の大雪です。車道脇に除雪した雪が高く積まれ、店先の人々は残された通路を歩いています。車や歩行者の通る場所を確保した跡が見えます。
家の前・校庭・運動場
育った日の小さな記録
本包みを持ち、縄跳びをし、車の前で写真を残しました。家族や生徒の写真には服装や生活道具も写っています。
春の家の前の家族写真
1940年の春に撮られた家族写真です。大人と子どもが家の前に何列かに並び、脇には自転車が立て掛けられています。韓服やほかの服装とともに、窓の格子や敷居も残されています。
大浦小学校の広い校庭
1950年代の大浦小学校の全景です。低い校舎の前の広い校庭に、児童が何列にも集まっています。後ろの山と校舎から、学校の敷地の大きさが分かります。
校舎の前に集まる束草小学校の子ども
1950年代の束草小学校の集合写真です。子どもたちが低い校舎の前に座ったり立ったりして並んでいます。長く続く窓と、一人ひとり異なる服装を見ることができます。
かばんの代わりに本包みを持って
1950年代、束草中学校1年生の夏の写真です。三人が本を包んだ布を持ち、家の前で姿勢を取っています。原資料は、当時は男女共学で制服がなく、本包みを使っていたと説明しています。
町の店先の子ども時代
1960年代の子どもたちを写した、家庭写真公募展の出品作です。木の戸のある店の前に四人が立ち、足元には土の道が続きます。しま模様の服や半ズボン、それぞれの姿勢に路地の一瞬が残っています。
校庭を埋める集団体操
1960~1970年代の束草中学校の校庭です。生徒たちが一定の間隔で並び、腕を伸ばしています。繰り返す列と手前に立つ人々から、集団運動の規模が分かります。
実習を終えた束草女子高の生徒
1971年、束草女子高校2年生が実習後に先生と撮った写真です。三人が並んで立ち、後ろには低い建物や塀が見えます。実習着のような服と普段着が一緒に残る学校生活の記録です。
校庭で縄跳びをする時間
1973年、束草小学校2年生の体育の時間です。子どもたちが校庭に広がって縄跳びをし、片側にはバスケットゴールがあります。教室の外で体を動かす授業を近くから写しています。
緑のポニータクシーのそばの子ども
1982年、温泉施設の前に止まった大明企業のポニータクシーです。子どもが緑の車体の横に立ち、後部の窓やハッチバックの形がよく見えます。記念写真に当時のタクシーの色と形も残っています。
収復塔前の砂浜の二人の子ども
1982年4月、収復塔前の砂浜で撮った写真です。二人の子どもが並び、後ろに海と灯台が見えます。帽子や重ね着、手にした物まで残る海辺の記念写真です。
湖と街に隣り合う永郎小学校
2000年の永郎小学校の全景です。横に長い校舎に窓が並び、緑の屋根と明るい外壁が目に入ります。学校の後ろには湖と住宅地が見え、子どもたちが通う学校が街のどこにあったかを見渡せます。
映画館・永郎湖・雪岳山・束草海岸
映画館へ、湖へ、海へ
映画の看板を見上げ、凍った湖でバランスを取り、バスを降りて山や浜へ向かいました。ともに時を過ごした場所を巡ります。
雪岳山旧観光地区の旅館通り
1950年代の雪岳山の旧観光地区です。飛仙旅館などの縦看板が低い建物の前に掛かり、道の中央を人が歩いています。山を訪れる人を迎える宿泊や食事の場が集まっていました。
大きな映画看板の東宝劇場
原資料の1950年代の項に掲載された東宝劇場です。正面に映画の題名や俳優の顔を描いた大きな看板が掛かっています。入口の上まで続く広告が、通りから映画館を見つける目印になっています。
サーカスを知らせる街頭行列
1950年代、サーカスを宣伝する街頭風景です。旗や長い宣伝物を持った人々が歩き、子どもたちがそばについていきます。町の通りで観客を集める宣伝の方法が写っています。
第一劇場の看板の下のバス
1960年代の第一劇場入口付近です。頭上の大きな映画広告の下にバスが止まり、横には人々が見えます。劇場の看板と車が重なり、狭い通りの密度が伝わります。
中央劇場の前に集まる人々
1960~1970年代の中央劇場の正面です。大きな映画看板が建物の上部を横切り、入口の前には人々が集まっています。通りから見える広告と入場する場所が一緒に写っています。
砂場で行われたシルム
1950年代の光復節記念のシルムの模範試合です。二人が砂場で組み合い、そばに見守る人が立っています。奥の観客も写り、屋外の競技をともに見る場を伝えています。
旧正月の凍った永郎湖で
1960年代の旧正月、人々が永郎湖の氷の上に集まっています。長い冬服を着た人々が広い氷上に立ち、後ろに低い丘が見えます。水辺の遊び場が冬には別の表面に変わる場面です。
虎岩の前の自転車
1960年代、永郎湖の虎岩を背景にした写真です。自転車を持つ人が立ち、後ろに岩と湖岸が続いています。移動の道具と湖畔の外出が、一枚の記念写真に残っています。
氷の上でバランスを取りながら
1973年、凍った永郎湖で友人とスケートをする姿です。二人が体を低くして腕を広げ、氷上でバランスを取っています。対岸の家々とともに、冬の湖を遊び場にする場面が残っています。
収復塔前を通る牛馬車
1960年代の収復塔と周囲の道を広く写した写真です。塔の見える道を牛馬車が通り、後ろに海が広がっています。記念塔が日常の通り道と浜の間に立っていた姿です。
瓦屋根の下の尺山温泉
1960~1970年代の尺山温泉です。低い瓦屋根の建物に温泉名が大きく書かれ、前庭に卓や人々が見えます。温泉客が出入りした入口周辺を近くから写しています。
列を作って渡るつり橋
1960~1970年代の雪岳山のつり橋です。狭い橋の上に人々が長く続き、両側の綱や手すりにつかまって渡っています。岩の間の通路の大きさが、人の動きから分かります。
観光バスの前の記念写真
1972年、雪岳山の駐車場で撮った記念写真です。二人が並び、後ろには何台もの観光バスが正面を向けています。大きなフロントガラスや車体の装飾に、団体旅行の交通手段が残っています。
雪岳山駐車場の売店前
1990年代の雪岳山総合駐車場です。売店や食堂の看板の下に人々が集まり、道端に荷物や商品が置かれています。登山の前後に食事や待ち合わせ、買い物をする空間が見えます。
朝陽海水浴場の開場標識前
1972年、朝陽海水浴場の開場時と記録された写真です。二人が海水浴場名のある入口の前に立ち、砂の道が海へ続きます。原資料は、ここを束草海岸の前身と紹介しています。
束草海岸入口、過去と現在
1990年代と2000年代の束草海岸入口です。両側の高い建物と中央の道を手掛かりに、看板や道端の様子を比べられます。
ここでの現在は二枚のうち後の時点を指し、今日の姿ではありません。
1990年代の束草海水浴場入口
1990年代、束草海水浴場へ入る道です。入口の両側に高い建物が立ち、その間を浜へ向かう道が延びています。続く2000年代の写真でも、同じ建物と道の形を探せます。
2000年代の束草海岸入口
2000年代の束草海岸入口です。前の写真にも見える建物の間を車が行き交い、壁面に宿泊施設や飲食店の看板があります。二つの時期の写真で、道の形と商業施設を比べられます。
車とパラソルでいっぱいの夏
1990年代の束草海水浴場を高い場所から見ています。手前の駐車場に車が並び、砂浜にはパラソルや人々が密集しています。駐車場と海水浴の空間がすぐにつながる夏の浜です。
章沙洞の砂浜に入ったワゴン車
1990年代の章沙洞の海岸です。砂浜には屋根に荷物を載せたワゴン車と自転車があり、周りに容器や道具、パラソルが置かれています。岩の見える水際まで続く景色の中で、海辺を行き来する車と人々が使う物を一緒に見られます。
雪岳山新地区の曲がる道
1990年代の雪岳山新観光地区内の道路です。低い建物や石垣の間で道が曲がり、奥に山頂が見えます。道路と建物から、観光地を支える施設の姿を見られます。
海へ延びる東明海上橋
1990年代の東明海上橋です。赤い構造物と青い手すりが海へ続き、先にはあずまやが見えます。水辺を眺める場所を歩行者用の橋の上へ延ばした施設です。